プロジェクトプランナー 真壁智治をモデレーターとし、第一線で活躍する建築家をゲストに招き、現代における住宅計画の"研究"と"設計"の両面から討議します。

第5ターム
“場所性”と“形式性”の間で(3/3)
木下庸子×乾久美子×真壁智治
第5ターム
“場所性”と“形式性”の間で(2/3)
木下庸子×乾久美子×真壁智治
第5ターム
“場所性”と“形式性”の間で(1/3)
木下庸子×乾久美子×真壁智治
第4ターム
集まって住むことの新しいかたち(3/3)
西田司×中川エリカ×篠原聡子×真壁智治
第4ターム
集まって住むことの新しいかたち(2/3)
西田司×中川エリカ×篠原聡子×真壁智治
第4ターム
集まって住むことの新しいかたち(1/3)
西田司×中川エリカ×篠原聡子×真壁智治
第3ターム
2010年、建築家が考える「エコハウス」(3/3)
竹内昌義×難波和彦×真壁智治
第3ターム
2010年、建築家が考える「エコハウス」(2/3)
竹内昌義×難波和彦×真壁智治
第3ターム
2010年、建築家が考える「エコハウス」(1/3)
竹内昌義×難波和彦×真壁智治
第1・2ターム総括(後半)研究と設計の距離
真壁智治
第1・2ターム総括(前半)研究と設計の距離
真壁智治
Vol.11〜16
第2ターム
小泉雅生×高橋晶子×真壁智治
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Vol.0〜10
第1ターム
難波和彦×篠原聡子×真壁智治
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家の知/討議 vol.4第1ターム
住宅から建築を考える
五十嵐太郎

fig.5=1960年代から全国各地に広がった
ニュータウンの風景(写真=puffyjet)
討議では、1970年代生まれの建築家について語られているが、彼らはあらかじめ風景が失われた世代である。均質とさんざん批判された団地やニュータウン[fig.5]が原風景なのだ。“野武士”の世代のように、戦後、劇的に変化する日本をリアルに体験し、昔はこうだったとノスタルジーに浸ることができない。生まれたときには、もう不可逆的な変化が起きていた。アトリエ・ワンやみかんぐみなど、1960年代生まれの建築家は、まわりの環境を読みとり、諸条件をもとに住宅を組みたてる。一方、藤本壮介、石上純也など、1970年代生まれの建築家は、個人の感性を軸に、新しい建築の原理をつくり、そこでしか生起しない空間の現象をもたらすことに向かう。
真壁によれば、カワイイ・パラダイムは使い手に寄り添う感覚である。それは社会と闘う建築ではなく、愛される建築だ。筆者の考えでは、こうした作り手から使い手への移行は、1960年代の都市論(ケヴィン・リンチなど)やポストモダンの建築論(ヴェンチューリやチェールズ・ジェンクスなど)において、すでに検討されたトピックである。彼らは、建築や空間を記号論的に分析し、作り手と使い手のあいだのコミュニケーションを円滑にすることをめざしていた。つまり、受け入れられる、愛されるデザインだ。とすれば、ポストモダンのときに達成できなかった目標を、カワイイ・パラダイムは再び補おうとしているのではないか。
ライフスタイルを提案できるがゆえに、難波が注目する中小ディヴェロッパーの賃貸住宅、そして家族の多様性を受け入れる器としての住宅に言及する真壁と篠原。こうした問題提起に対して、西沢立衛の森山邸は興味深いプロトタイプにもなっている。地主の住居と賃貸の住宅を大きなひとつのヴォリュームに押込めることなく、分棟形式で敷地にばらまかれ、しかも占有できるエリアの組み合わせがさまざまなバリエーションをもつ。もっとも、誰もが住める家ではないから(筆者も蔵書が多く、家で仕事をすることが多いために、ここでは住めないと思ったが)、決して大規模な開発にはならないだろう。だが、デザイン好きの顧客予備軍も常にいるのではないか。つまり、いわゆるメジャーではなく、数は多くないけれど、圧倒的な個性ゆえに、少数の需要も存在するはずだ。実際、ここは知人のネットワークによって居住者が集まっている。学生が安易に森山邸を真似して、ぽこぽこ系のデザインを行うと、またかと思うのだが、確かにこれは塔の家や住吉の長屋などに匹敵するような、時代の象徴となる住宅だ。篠原がいう「ポスト家族の世代」に関心をもたれるのは必然なのだろう。
一方で、難波の「箱の家」シリーズは、直感的に導くのではなく、まさに実験とスタディを繰り返しながら、社会性を獲得していく住宅である。物件の数が増えても単なる反復に陥らず、次の問題やテーマに展開していく。同じ家でも、人によって意見が分かれ、住宅の尺度として機能するというエピソードも興味深い。家族の問題だけではない。ましてや意匠に限定するものでもない。ここに環境、材料、構造など、あらゆるトピックが関与し、論理的に構築していく。まさにアーキテクチャーの語源通りに、諸々の技術の総体としての「建築」である。住宅をなんでもありの個人の趣味空間に完結させることなく、社会に接続させる装置として再定義すること。住宅は建築である、と胸をはって言えることが心強い。
五十嵐太郎 Taro IGARASHI
(建築史・建築批評家)
1967年、パリ(フランス)生まれ。
1990年、東京大学工学部建築学科卒業。1992年、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。現在、東北大学准教授。
第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナーを務める。
著書=『終わりの建築/始まりの建築』(INAX出版)、『近代の神々と建築』(廣済堂出版)、『戦争と建築』(晶文社)、『美しい都市・醜い都市』(中公新書ラクレ)、『現代建築に関する16章』(講談社現代新書)、『新編 新宗教と巨大建築』(筑摩書房)、『「結婚式教会」の誕生』(春秋社)、『映画的建築/建築的映画』(春秋社)ほか多数。
